大判例

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宇都宮地方裁判所 昭和62年(わ)39号 判決

主文

被告人両名をそれぞれ懲役二年六月に処する。

被告人両名に対し、未決勾留日数中各一四〇日を、それぞれその刑に算入する。

被告人甲に対し、この裁判確定の日から五年間右刑の執行を猶予する。

被告人乙から金二八三五万円を追徴する。

訴訟費用は被告人両名の連帯負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人乙は、昭和六一年四月一三日施行の今市市長選挙に当選し、同年五月八日同市長に就任して、同市が発注する公共工事の受注者が指名競争入札の方法によって決定される際における当該入札参加者の指名、入札の実施、落札者の決定及び落札者との請負契約の締結等の職務を担当することとなったもの、被告人甲は、同市大桑町〈番地略〉に本店を設置し、土木建築請負業などを営むT建設株式会社の代表取締役社長として、同社の業務全般を統括掌理していたものであるが、

第一  被告人甲は、T建設株式会社代表取締役副社長であったA及び同社の下請け業者であるBと共謀の上、昭和六〇年七月初旬ころ、同社沓掛〈番地略〉所在のC方において、当時、今市市長として、前記のとおり同市が発注する公共工事における入札参加者の指名等の請負業者の選定及び落札者との請負契約の締結等の職務を担当していた右Cに対し、右Bにおいて、「Aから頼まれて来た。T建設は選挙では中立を守るから、今後指名は抜かないで欲しい、南原小学校新築工事も取りたいと言っている。Aは、選挙の際には、一〇〇〇万円を用意すると言っているから、お願いします。」という旨の申し出をなし、よって、同市が発注する建設工事、とりわけ同年度中に発注を予定していた同市立南原小学校校舎及び給食室新築工事の指名競争入札につき、当該入札に参加できるようT建設株式会社を指名されたい趣旨の請託をし、次いで、同月中旬ころ、Aから前記請託に対する謝礼の趣旨で現金一〇〇〇万円を預かっていたBにおいて、右Cから前記申し出がなされた金員の授受について一任されていた宇都宮市〈番地略〉所在宇都宮産業株式会社内のDに対し、「Aさんから例の現金一〇〇〇万円を預かってきた。」旨電話で連絡をしたところ、右Dから、「こちらで使う時にいつでも出せるようにして預かっておいてくれ。」という旨保管方を指示され、右Bにおいて、右指示に従って右現金一〇〇〇万円を前記Cのために保管することを承諾して、前記請託に対する謝礼の趣旨で現金一〇〇〇万円を供与し、もって、Cの職務に関し請託して賄賂を供与した

第二  被告人乙は、前記選挙に際し、立候補することを決意してこれを表明するなどしていた昭和六〇年八月初旬ころ、前記T建設株式会社本店において、当時今市市と同市立落合東小学校校舎及び給食室増改築工事等の請負契約を締結していた同社の代表取締役である被告人甲及びAの両名から、同市長に当選した場合担当することとなる前記公共工事における入札参加者の指名等の請負業者の選定及び落札者との請負契約の締結等の職務に関し、同社を同業他社よりも有利便宜に取り扱ってもらいたい趣旨の下に、「選挙の情勢はどうですか。選挙資金はT建設で三〇〇〇万円を用意しますので、G建設から援助を受けないで下さい。八月に五〇〇万、一〇月に五〇〇万、一二月に一〇〇〇万、二月に五〇〇万、三月に五〇〇万を出すことでいかがでしょうか。選挙資金のお世話は、T建設でしますから、市長になったら恩返しして下さい。」との申し出をされて、T建設株式会社を同業他社とりわけG建設株式会社よりも有利便宜に取り扱ってもらいたい趣旨の請託を受けた上、その報酬として供与されるものであることの情を知りながら、別紙記載のとおり、昭和六〇年八月二一日ころから昭和六一年二月三日ころまでの間、四回にわたり、同社本店ほか一か所において、前記選挙の選挙資金として現金合計二八三五万円の供与を受けてこれを収受した上、その後、同選挙に当選し、同年五月八日同市長に就任し、もって、被告人乙の将来担当すべき職務に関し請託を受けて賄賂を収受するとともに、前記選挙に関し、公職選挙法上寄附を禁止されている者から寄附を受けた

第三  被告人甲は、Aと共謀の上、右第二記載の日時場所において、被告人乙に対し、前同記載の趣旨の請託をした上、その報酬として現金合計二八三五万円を供与し、もって、被告人乙の将来担当すべき前記職務に関し賄賂を供与するとともに、前記選挙に関し公職選挙法上寄附を禁止されている会社の役員として寄附行為をしたが、その後被告人乙は、前記のとおり同選挙に当選し今市市長となった

ものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(事実認定の補足説明)

第一  争点の概要

被告人甲(以下、「甲」ともいう。)の弁護人は、C(以下、「C」ともいう。)に対する一〇〇〇万円の供与は、これまでT建設株式会社(以下「T」ともいう。)がCに世話になったことのお礼と、昭和六一年の今市市長選挙でCを応援できないことのおわびの趣旨で贈ったものであり、Cの職務に関して請託の上贈ったものではないなどと主張し、甲もこれに沿う供述をしている。また、両被告人の弁護人は、①被告人乙(以下、「乙」ともいう。)に交付された約三〇〇〇万円(以下、昭和六〇年八月以降乙に交付された金員を、便宜「三〇〇〇万円」と述べることがある。)は、乙がA(以下、「A」ともいう。)個人から借りたものであって、Tから贈られたものではない、②乙が今市市長選への立候補を決意したのは昭和六〇年一一月下旬ころであって、同年八月の時点では未だ立候補の決意をしていなかった、③金を受け取るに際して、市長就任後は今市市発注工事の業者指名等に便宜を図ってほしいとTから請託を受けたことはないし、そのような便宜も図っていない、④乙がAから交付を受けたのは、二八三五万円ではなくて二四九七万円であるなどと主張し、乙や甲もこれに沿う供述をしている。さらに被告人両名は、公訴事実を認めた捜査段階における自白には任意性がないと争っている。

そこで、以下では、両公訴事実の共通の前提となる事実関係を被告人両名及びAの捜査段階における各供述を除いた証拠により認定した上で、各公訴事実につき、争点を順次検討することとする。

第二  前提となる事実関係

一  Cと乙の対立及び乙の市長選出馬への動き

1 今市市における政治的対立

乙は、栃木県今市市で出生し、教員となった後、昭和四八年からは同県塩谷郡栗山村教育委員会教育長に就任していたが、当時今市市長だった父新作が病気のため市長を辞任したのを契機に政治家へ転身することとなり、昭和四九年五月の補欠選挙以来、四期連続今市市選挙区選出の県会議員となって、父の後任の今市市長になったCとともに、同市内において有力な政治勢力を形成していた。右両名は、当初、選挙でも協力関係を結ぶなどしていたところ、そのうち、Cの政治姿勢がワンマンであり、市政を私物化しているなどとの批判が高まり、昭和五七年実施の今市市長選に際しては、乙の後援会の青年部を中心に乙が市長選に出馬すべきであるとの意見が強力に出るまでに至ったが、市政のあり方に対する乙の申し入れをCが受け入れたことなどにより、右市長選における乙とCの対決は回避された。ところが、昭和五八年施行の県議選において、今市市選挙区からCの娘婿であるD(以下、「D」ともいう。)が立候補し、現職の乙及びPと争うこととなり、これを契機に乙とCは今市市を二分して対立を深めていった。

2 昭和六一年市長選への動き

このようにC派と乙派の対立が深まる中、乙もCの四選阻止を決意するに至り、また、乙後援会においても、乙に昭和六一年の市長選への出馬を求める動きが表面化し、昭和六〇年二月二五日、今市市内のつたや旅館で開催された同後援会青年部の会合において、乙に対し、市長選への出馬を求めて直談判に及ぶ者までが出現するほどの高まりを見せ始めていた。

このような状況下、同年三月二八日、乙は県議会副議長に就任し、同年五月一九日、今市市総合会館において開催した「乙栃木県議会副議長就任祝賀会」等を挙行するうち、後援会において、市長選に出馬すべきであるとの声が一層の高まりを見せた。さらに、同年六月には、今市市議会の会派が、C派と反C派に分裂する事態も生じた。そして、同年七月二六日、鬼怒川温泉内の京屋ホテルにおける前記祝賀会実行委員会の慰労会においても、乙に対して市長選出馬を求める声が相次ぎ、翌日の新聞に、右会合において乙が市長選出馬を表明したとの趣旨の記事が掲載された。

そのころから、乙の後援会組織が強化されてその活動が活発化し、翌年四月にかけて各種会合が開かれ、乙は同月六日、今市市長選に立候補し、同月一三日、Cに対して約七〇〇〇票の差をつけて当選した。

二  今市市内の建設業者及びTの営業活動の状況

1 市長と建設業者の関係

ところで、今市市内の建設業者も、Cと乙との政治的対立を受けて色分けされていたが、そのうち、Tは、昭和二一年にT林業株式会社として設立され、T鉄道の系列として、資本金一億円を超えるまでに成長した建設会社であり、昭和五八年からは、甲が代表取締役社長に、Aが同副社長に就任していたが、社長の甲が乙の従兄弟であることから、同社は乙派であると目されていた。

今市市長は市発注工事の指名業者の選定等に強大な権限を有していたが、Cは、自らの息のかかった建設業者を市発注工事において優遇するとの風評があり、他方、反対派の業者については、例えば、有力建設業者であったP建設株式会社は、代表者が前記P県議の実弟であり、過去に市長選挙でCの対立候補を支援したことからCににらまれ、今市市発注工事の受注率が低下したと建設業者間で噂されるなど、市発注工事の受注に際して冷遇されているとされていた。このような状況下で、乙派と目されていたTは、Aや営業部長のE(以下、「E」ともいう。)らにおいて、今市市行政管理部監理課長であり、Cの右腕とされていたF(以下、「F」ともいう。)に対し、賄賂を贈って入札の予定価格など受注に必要な情報を得たり、企業防衛上、選挙でDやCの応援をするなどしてCににらまれないよう苦労しながら営業活動を行っていた。

2 学校工事受注を巡る状況

今市市では、昭和五七年ころから学校建築工事が年二校の割合で発注されるようになったが、学校建築工事は大規模工事であり、地元建設業者としては有力業者であるTとG建設株式会社(以下、「G」という。)が主に学校建築の本体工事受注を分けあっていた。そして、今市市における学校工事の受注に際しては、指名を受けた業者間において事前に話し合いがなされ、受注する業者が予め決められるのが慣例となっており、例えばTとGとの間には、ある学校工事をTが受注した場合には、別の学校工事をGに譲るといった貸し借りともいうべき関係が作られていた。

ところで、先に述べたとおり、昭和六〇年に入ってから、乙に今市市長選に出馬して欲しいとの声が盛り上がるようになっていたが、Aとしては、乙の出馬を前提とした事実上の選挙戦が激しくなれば、乙派と目されているTにとって、C派と目されているGと調整をしながら市発注工事を受注することは一層困難となるだけでなく、場合によっては、Tが工事の入札業者の指名から外されるおそれがあると判断し、事実上の選挙戦が激化する前に、昭和六〇年度中に発注される予定の今市市の二つの学校建築工事のうち、当時発注が遅れていた仮称「駅周辺小学校」(後、校名が「南原小学校」となった。以下、「南原小」という。)よりも同年六月に発注が決まっていた落合東小学校(以下、「落合東小」という。)を先に受注した方が良いと考えた。そこで、Tとして、同校建築工事を受注すべく、南原小の受注を目指した従来の営業方針を変更し、落合東小の受注のための営業活動を行い、その中で同年六月初めころ、甲、A及びEを交え、指名業者間で同校建築工事受注のための話し合いを行ったが、Gも同校工事の受注を希望したため、結局話がまとまらず、TとGは、お亙いに自社の判断に従って競争入札を行ういわゆる「叩き合い」を行うことになり、その結果、同月六日、TとGは、両者とも、落合東小の設計価格を約四七〇〇万円下回る三億四五〇〇万円の同金額を入札し、くじ引きの結果Tが落札した。

3 Cへの一〇〇〇万円交付

他方、同年五月、FがAを呼び、「Tは、企業ぐるみで市長選挙をしない方がいい。Cが黙っていない。中立でいた方がいい。中立でいても、選挙が激しくなればCから制裁を受けるかもしれない。金をやって早めに手を打っておいた方がいい。」旨忠告した。

そこで、Aは、甲と相談の上、Cに対して一〇〇〇万円を贈ることとし、同年六月下旬ころ、かねてからTの下請け業者として親交があり、C後援会の主要メンバーであったB(以下、「B」ともいう。)に対し、「Tは今回の選挙では中立でなければならないので、Cの応援はできない。選挙が激しくなれば、Cから制裁を受けるおそれもある。これまでCに世話になった礼などの意味と、南原小の指名を抜かないで欲しいという意味で、Cに一〇〇〇万円を選挙資金として出すから、仲介に立ってCに話をしてくれ。」という旨頼んだ。Bが、同年七月初旬ころ、CとDに対しその旨伝えたところ、Cが、「分かった。選挙のことは全部Dに任せてある。Dと相談しながらやってくれ。」と応じ、BはCが申し出に応じた旨Aに連絡した。

ところが、同月七日、国有林所在市町村有志協議会のゴルフコンペが催され、Tから出席したAは、これに参加していたCから、多数の者のいる前で、落合東小の入札の件について、「Tはばかだから、安い仕事をたくさん取る。市役所の工事を全部回してもいい。」などと批判され、恥をかかされた。このようなCの態度を見て、Aは早急に一〇〇〇万円の供与を実行する必要があると感じ、Tの経理操作により資金を捻出した上、同月中旬ころBに一〇〇〇万円を交付した。Bは、右事実をDに伝えたが、Dの要請により、しばらくBが右現金を保管することとなった。

ところが、同年一一月中旬ころ、CはH助役に対して南原小の入札では叩き合いをしないようTに注意するよう指示し、Cの意を受けたHは、Aを市役所に呼びつけ、南原小の指名を辞退してもらいたい旨告げた。Aはこれに反発し、指名辞退に応じず、結局、Tは南原小工事で指名されたが、落合東小の場合と同様、TとGとの間で事前の話し合いはつかず、再びTとGとの間で叩き合いがなされた上、Gが同工事を受注した。

三  Tから乙への現金交付

1 乙への一五〇〇万円交付

昭和六〇年に入って乙の政治活動が活発化する中で、Tは乙に対して、以下のとおり現金を交付した。すなわち、Aは、昭和六〇年三月ころ、Cから政治活動資金の調達を要請され、甲と相談の上、Cに副議長就任祝金として現金五〇〇万円を贈ることを決め、同月下旬ころTの開発事業部長I(以下、「I」ともいう。)に対し、同部が建設分譲している千葉県内の「クアライフ御宿」の販売委託先である株式会社八重州企画に販売手数料五〇〇万円を前払いし、これを同社からAが借り入れする方法で現金五〇〇万円を捻出させ、甲を通じてこれを乙に手渡した。その後の同年四月中旬ころ、乙からAに対し、さらに五〇〇万円都合してほしい旨の申し入れがあり、Aは、甲と相談の上、同年五月八日ころ、Aが代表取締役をしておりTの関連会社である今市林業開発株式会社から架空労務費を計上する方法で五〇〇万一三二〇円を捻出し、甲を通じてこれを乙に手渡した。さらに、同年六月上旬ころ、再び五〇〇万円都合してほしい旨の申し入れが乙からあったため、Aは甲と相談し、乙に対して五〇〇万円を都合するとともに、先に述べたとおり、Cに対しても一〇〇〇万円贈ることとし、以上の一五〇〇万円は架空経費としてTから前記八重州企画に支払わせ、これをAが借り入れる方法で捻出することとなり、うち一〇〇〇万円は同年七月中旬ころCに交付し、乙に対する五〇〇万円は同月二〇日ころAが直接乙に交付した。

2 乙への約三〇〇〇万円交付

同年八月初旬ころ、乙がTの役員室を訪れ、甲及びAと選挙情勢を話し合った上、さらに乙に対して三〇〇〇万の選挙資金を援助することとなり、八月に五〇〇万円、一〇月に五〇〇万円、一二月に一〇〇〇万円、二月に五〇〇万円、三月に五〇〇万円と分割して交付することとなった。Aは、同年八月中旬ころ、Iに対し、「会社で政治的に使うのに必要な資金なので、三菱銀行押上支店(以下、「押上支店」ともいう。)からA名義で三〇〇〇万円を借り入れできるようにしてもらいたい。一時資金なので、一年くらいで返済できる。借り入れに関しては、Aと甲所有の不動産を担保に入れる。」旨指示し、Iが同支店と交渉した結果、同月三〇日付けで、A名義の不動産を担保提供し、甲を連帯保証人とする約定で、極度額三〇〇〇万円の根抵当権設定契約が締結され、右借入金の受入のため、同支店にA名義の普通預金口座が設定された。

ところで、Aは、右契約締結前の同月二一日ころ、Tの副社長室を訪れた乙から、「五〇〇万円を早急に使いたいので出してもらいたい。」と要求され、右時点ではまだ押上支店と借り入れ交渉中であったため、M経理部長に命じて五〇〇万円をTから仮払出金させて、これを乙に手渡した。右仮払出金については、同月三〇日にAが押上支店から借りた四八七万円が充当され、翌日に残額の一三万円が充当された。Aは、同年一〇月一一日ころ、Iに指示して押上支店から五〇〇万円(金利が差し引かれていたため実際に口座に入ったのは四九〇万円余)を借り入れさせて、うち四九〇万円をTの副社長室で乙に手渡し、さらに、同年一二月一〇日ころにも、同様に一〇〇〇万円(金利控除後実際に口座に入ったのは九八〇万円余)を借り入れさせ、うち九八〇万円を同月一二日ころ乙方で同人に手渡した。そして当初の計画では昭和六一年に二回に分けて残りの金を渡すこととなっていたが、Aは、同年二月中に残額をすべてを渡した方が選挙のために有効と考え、甲と相談の上、同月一日ころ、Iに指示して、押上支店から三〇〇〇万円を借り入れさせ、うち二〇〇〇万円をこれまでの借入金の返済に充当した上、利息等の差し引かれた残額の八六五万円の払戻を受け、同月三日ころ、乙方でこれを同人に交付した(なお、交付額を以上のように認定した理由については後に述べる。)。

3 Tにおける経理処理

Aは、押上支店から借り入れした三〇〇〇万円、昭和六〇年七月までに乙に渡していた一五〇〇万円及びCに渡した一〇〇〇万円の合計五五〇〇万円を、Tの計算において速やかに経理処理すべきものと考え、昭和六一年二月初旬ころ、甲と相談の上、前記クアライフ御宿関係の経理操作により填補資金を捻出することとし、TからJの経営する東洋宣伝株式会社にクアライフ御宿関係の広告費六〇〇〇万円を支払ったように仮装処理し、Jがこの中から五〇〇万円の謝礼を受け、残りの五五〇〇万円を右東洋宣伝名義の口座から払い戻して填補資金に当てることとした。右仮装支払金は、昭和六一年三月から七月にかけて東洋宣伝の口座に分割払い込みされ、この資金で押上支店からの借入金が返済された。

4 乙の金銭費消状況等

乙は、前記三〇〇〇万円を支持者等からの寄付とともに、乙の実質的な出納責任者であるK(以下、「K」ともいう。)に渡すなどして、後援会活動や選挙戦資金に使った。乙が市長選に当選した時点において、手元に七〇〇万円ないし一〇〇〇万円程度の金が残っており、そのころ乙は、この金を返す旨甲とAに申し出たが、まだいろいろ金がかかるだろうから後でいいと言われたため、これを保管し、妻の乙2はその一部を一時払養老保険に入れた。その後、乙からの返済の申し出はなく、またAや甲からの返済を求める要求もなかった。

四  市長選後の状況

1 大沢中学校工事発注の状況

乙は、今市市長選に当選後、昭和六一年五月八日、同市長に就任した。

ところで、同年発注予定の学校工事として、大沢中学校校舎及び給食室増改築工事があり、右工事は約七億円にのぼる大型工事であることから、Tは受注を目指して営業活動を行っていたが、C市政下において取られていた分離発注方式(工事を分離して、複数の業者に発注する方法。)では利益が上がりにくいことなどもあって、Aとしては、一括発注方式に変えてほしいとの希望を持っていた。そこで、同月一二日ころ、乙がTの役員室に市長就任の挨拶に訪れた際、Aは、「Gと同じ扱いじゃ困るよ。Tを頼みますよ。」「大沢中学校の工事では、電気、設備工事を含めて一括発注してもらいたい。」旨乙に申し入れ、乙は、「検討してみる。」旨答えた。

乙は、企画係長のLらに指示して、分離発注の中止、市内・日光地区業者の育成、受注機会の均等化、機密の保持を内容とする「六一年度建設工事業者選定に関する市長方針」を策定させた。そして、教育委員会学校教育課長Qが、大沢中学校関係工事について、従来の慣行どおり、今までの実績と会社の規模を考慮して、地元のAランク業者であるT及びGの二社のほか県内外の大手業社で構成した選考案を作成した上、同月五日ころ、市長室において、乙の事前決済を受けに来た際、乙は、日光広域圏の業者を選ぶことを理由に県内の大手業者を指名から外したほか、Gをも指名から抜くよう指示し、これまで学校建築工事でGを外した例がないというQに対して、Gは南原小を受注しているからと述べ、結局、Gを指名案から抜かせた。また、大沢中学校関係工事は、Cの指示により分離発注方式が取られ、同方式による設計書が完成していたが、乙の指示により一括発注方式に変更された。指名は乙の指示どおりに行われ、同年六月に現場説明会が行われたが、その日のうちに、Eは、指名された東京の大手三業者に電話して、地元業者に落札させるとの同意を得るとともに、入札前日、Tを含む地元業者の間で話し合いを持ち、Tが大沢中を落札することで話がついた。

2 予定価格の漏洩

乙は、大沢中学校関係工事の入札手続が行われる同月一三日早朝、自宅に甲の訪問を受け、同人から「大沢中学校の予定価格を教えてもらいたい。」旨要請され、一旦は右要請を断ったが、同日登庁し、同工事の予定価格を六億九五五一万円に決定した後、午前九時三〇分ころ、市長室からTの役員室に電話し、甲に対し予定価格の上三桁を教示した(このように認定した理由については後に述べる。)。甲は、ちょうどそのころ、Eが同工事の入札手続に出向くため、同役員室に挨拶に来たので、同人に対し、同社で積算した入札価格を報告させたところ、、「第一回目が七億〇三〇〇万円、第二回目が六億九四〇〇万円、第三回目が六億九〇〇〇万円を予定しています。」旨述べたので、同人に右のとおりの金額で入札するよう指示し、Tは、大沢中関係工事を六億九四〇〇万円で落札した。

第三  Cに対する一〇〇〇万円の贈賄について

一  第二で認定した事実によれば、AがBと共謀し、Cに対して請託の上賄賂を供与したことが明らかである。

そこで、右事実についての甲の共謀の有無について検討すると、この点について、Aは公判において、「昭和六〇年五月下旬ころ、今回の選挙で応援ができないと制裁があるかもしれない、金を出しておいた方が良いだろうと話したところ、甲も制裁の危惧があるから金を出すのはやむを得ないと同意した。六月上旬ころ、Cに贈る金額について甲に言っていなかったので、一〇〇〇万円ということを話すと、甲は一〇〇〇万円は少し多いと言ったが、南原小の発注も六〇年後半には予想されていたので選挙が激しくなって指名を外される可能性も十分あるから、この程度はやむを得ないと説明すると甲も納得した。資金は、開発事業部を通して八重州企画から借り入れると相談した。」旨供述しているが、右供述は具体的であり、Aらが、選挙による影響を恐れ、昭和六〇年後半に指名があると予想された南原小ではなく落合東小の受注を目指してGと交渉をしたという先に認定した事実とも符合する。また、市から受注する工事において学校工事が占める重要性や、Cの残りの任期内に発注が予想される学校工事は南原小であったことに照らすと、金額に難色を示した甲をAが南原小の指名に関する話で納得させたという経緯は自然で納得できるものであって、右供述は十分に信用できる。

他方、甲自身、公判の各段階で内容の異なるあいまいな供述をしているものの、「Aから、Fの話として、Cに金を贈らないと締めつけを受けるんじゃないかとの話を聞いた。」「CがTを色眼鏡で見ているような流れがあった。Cの腹心であるFがそう言うんだから、Cがそのような意向なのかという感じを受けた。」「一〇〇〇万円には、最悪の事態になっても指名を外さないでもらいたいという趣旨もあった。」旨述べているのであって、右供述はAの供述やこれを裏づける事実に照らしても十分信用できる。この点につき、甲は、公判において、一〇〇〇万円は、これまでCに世話になったお礼と昭和六一年に予定されている選挙でCを応援できないおわびの趣旨で贈ったものであり、賄賂ではない。南原小の受注の点については知らなかった旨供述してもいるが、まず、金の趣旨の点については、他の証拠から認められる状況にそぐわないし、また請託の趣旨があったかのように公判で供述しているところもあることに照らしても、信用できない。また、南原小工事の発注についても、落合東小の受注交渉をAらと共に行った甲が、南原小の発注について知らなかったとは考えられないところである。

そうすると、甲がCに対する請託の点をも含めてAと共謀していたと認めることができる。なお、甲は、BがCへの現金供与に関与することは知らなかった旨述べているが、仮にそうであったとしても、先に認定した事実によれば、いわゆる順次共謀により、AとB及び甲の全体に共謀が成立することは明らかである。

二  ところで、甲の弁護人は、①C市政下においてGが「C派」として優遇されたような事実はなかった、②Cが南原小工事においてTの指名を外すことはありえなかった、③Tとしては、学校建築工事は社運を賭けて行うようなものではなかった、④南原小工事についてもTには受注の意思がなかったなどの点を指摘し、南原小の指名に関して請託をしなければならない状況にはなかったと主張するので、以下これらの点について検討する。

まず、①の点ついて検討すると、先に認定したとおり、今市市内の建設業者の間では、Cを支持する業者はC市政下で業績を伸ばすことができ、昭和五七年の市長選挙でCからにらまれたP建設は指名回数を減らされるなどして業績が悪化したなどといった風評があったこと、GはC支持であり、Tは乙派と目されていたこと、このような中、Cから色眼鏡で見られていると甲も認識していたこと、事実、南原小の指名を得るまでに、T側は、現金を贈らないと締めつけられるとFから言われたり、多数の者の面前で批判されたり、果ては南原小の指名辞退まで迫られたことが認められるのであって、このような事情に照らすならば、Cによる業者差別が事実存在したかどうかの点は一応措くとしても、少なくともTとの比較においてGが優遇されていると関係者が認識するだけの状況があったことは明らかである。

また、②の点についてみても、事実Cがどのようなつもりでいたかはさて措くとしても、甲自身が公判で「指名から外すというようなことも含めて、もろもろの不利益なことをやられることを懸念した。」旨述べているとおり、指名を外される可能性があると甲ら関係者が認識していたことは明らかであり、Fからの忠告や南原小の指名前にAが指名の辞退を迫られたことなどの事情からみても、このような認識が取るに足りない杞憂であったということはできないのである。

さらに、③の点について検討すると、前記証拠によれば、学校建築工事は市発注工事の中でも最大規模のものであり、これを受注することは業者の利益になるだけでなく、会社の信用を高めることにもつながること、Tは、当初民間工事主体であったが、その後公共工事の割合を増やしていたこと、昭和五七年ころから年に一校程度の割合でTは学校建築工事を受注し、今市中学校の工事に関しては、発注方式を一括発注に変えてもらうため、AにおいてCに対し賄賂の申し込みまでしていること、昭和六〇年六月の落合東小の入札では、赤字覚悟の叩き合いまでして受注していることが認められるのであって、これらの事情によれば、Tが学校建築工事を重要なものとみなし、その受注のため営業努力を重ねていたことが明らかである。

また、④の点について検討すると、前記証拠によれば、大規模工事で指名されることは業者の信用を高めることになるだけでなく、指名された業者間で談合を行うことにより、貸し借りの関係を作り、仮に指名された工事が受注できなくても、以後の工事受注で有利な立場を作ることができること、Tとしては落合東小を受注できたこととの関係で、絶対に南原小受注を目指すとの強い意思はなかったが、うまく行けば南原小をも受注したいという意思はあり、また、何よりも指名されることにより、落合東小の叩き合いで受けたと同様の損失をGにも与えられると考えていたこと、南原小の入札前に指名辞退を迫られた際、Aが激しくこれに反発していることが認められるのであって、これらの事情によれば、なるほどTが絶対に南原小を受注するとの意思であったとまではいえないものの、同小工事の指名は是非受けたいとの意思でいたことが明らかである。

以上のとおりであって、弁護人の①ないし④の主張はいずれも採用できない。

第四  乙に関する贈収賄について―客観的事実の検討

一  金銭授受の性格

1 A及び甲側の認識

先に認定した事実及び前記証拠により認められる事実によれば、以下の点を指摘することができる。

すなわち、①金銭授受にあたって、借用書は作成されていないだけでなく、利息、担保及び返済期限等についても具体的な取り決めは何らなされなかった。Aは、三〇〇〇万円交付の約束をするに際して、乙の資産等について調査しているわけでなく、乙からその所有する不動産の権利証を受け取るなどしたような形跡も全くない。両被告人の弁護人が主張するように、Aは乙と遠縁に当たり、このような身内から金を借りた場合借用証等を作成しないことは十分考えられるし、また使途が政治資金であったことに照らすと、むしろ借用証が作成されなかったとしても不思議ではないとの理解が成り立たないわけではないが、これだけ多額の金について、当事者間で返済期や返済確保の手段等について一切話がなされていなかったのは、この金が返済を予定した金だったということと大きく矛盾するというほかない。②このようにそもそも返済が極めて不確実な金であったにもかかわらず、Aは、Iに指示して押上支店からの借り入れ交渉をさせるに際して、同人に半年から一年くらいで返済できると具体的な見通しを述べている。このことは、Aが乙からの返済以外の方法により押上支店からの借入金を返済するつもりでいたことを物語っている。③また、Aは、やはり借り入れ交渉を指示するに際して、Iに対し、会社で政治的に必要な金ができたから銀行への借り入れをする旨述べている。このことは、Aが、自分個人の金ではなく、会社の金として、乙に三〇〇〇万円を交付するつもりだったことを物語っている。④そして、Aは、協力者に五〇〇万円の謝礼を支払った上、クアライフ御宿関係で数回にわたり複雑な経理処理を行って裏金を捻出し、これにより押上支店への借入金を返済しているのであるが、このようにTの金を使って返済することについてAから相談を受た甲は、異議を述べることなくこれを了承している。右一連の事実及び前記①ないし③の事実によれば、Aは、当初からTの計算において乙に三〇〇〇万円を支払うつもりであったことが明らかである。また、三〇〇〇万円が個人の貸借であった場合、これを会社の金で填補することが重大な背任行為になることは、当然甲も認識していたはずであり、それにもかかわらずこれを了承した甲の対応からすると、同人もAと同じ認識でいたことが明らかである。⑤このようにTの金によってAの借入金は返済されたのであるが、その後Tから押上支店に返済された金が乙から填補されておらず、Aや甲も、乙に対して三〇〇〇万円交付後七年にもなるというのに、その間返済要求を一切行っていない。Aや甲が三〇〇〇万円を真に個人の貸し付け金であり、Tの金による返済がA個人の借入金を一時的に肩代わりする趣旨のものであったと考えていたのだとすれば、この事実は、誠に異常というほかない。⑥以上の事情に加えて、A個人の名義で借りたのは、政治色を出すことを嫌う親会社のT鉄道から監査を受けるのを避ける趣旨であったこと、金銭交付に際しては、Tの役員室でTの社長である甲とも緊密に相談をしながら行われたこと、Aは乙と遠縁に当たるとはいえ、甲に比べそれほど親密な交際をしていた訳ではなく、乙に対して個人的にこれだけ多額の貸付を行わなければならないような事情は窺えないこと、甲は昭和六一年一二月中旬ころ、当時Aの弁護人であり、自己の息子であるL2から電話を受け、三〇〇〇万円などに関するAの供述内容を聞いてメモまでしているにもかかわらず、同弁護人に対し、これがA個人の貸付であるとは一切伝えていないのであるが、真に三〇〇〇万円が貸付であったのならば、法律の専門家であり、一番身近で信頼できる同弁護人に貸付であるとの話をしなかったのはいかにも不可解であり、またこれにつき、合理的で納得のゆく説明が全くなされていないことなどの事実が、証拠上認められ、さらに、A自身、その後の捜査、公判を通じ、三〇〇〇万円はTから乙に贈ったものであり、自分が個人的に貸付けたという認識はなかった旨一貫して供述している。

これらの事情によれば、乙に交付された金が返済を予定したものでなく、甲及びAにおいては、Tから乙へ贈与された金だと認識していたことが明らかである。

2 乙の認識

先に認定した事実及び前記証拠から認められる事実によれば、以下の点を指摘することができる。

①甲とAにおいては、Tから贈与するとの意図であったと認められるのであり、この点につき、Aらにおいて、乙に対し、ことさら、右金銭がAから乙への個人的貸し付けであるように装わねばならない理由は窺えない。②そして、金銭授受にあたって、貸借の話が出なかったこと、借用書は作成されなかったこと、当事者間で利息、担保、返済期限など返済を確実にするための具体的な話し合いや取り決めが何らなされていなかったことは、先に述べたとおりである。③金銭授受からすでに七年以上を経過しているにもかかわらず、返済のための交渉等も全く持たれておらず、三〇〇〇万円という多額の金銭のうち、一〇〇万円、二〇〇万円といった程度の金でさえ七年間にわたり一切返済されていない。乙の公判での供述によれば、乙には土地を売って返済できる算段があっただけでなく、妻の乙2に保管させた金のほか、乙2の預金等が二〇〇〇万円程あるというにもかかわらず、これらを用いて返済に充てようなどといった動きも全くない。さらに、乙の公判供述によれば、乙としては三〇〇〇万円は利息を支払わなければならない借入金であるとの認識だったというのであるが、返済に充てられる資金があるというにもかかわらず、利息が膨れ上がるのをいたずらに放置したまま、一銭たりとも返済しないというのは誠に異常というほかない。④乙の公判供述によれば、乙は以前の県議選では、埼玉県に住む石島という人物から選挙資金を借りていたというのであるが、右供述によると、石島からの資金にはなるべく手をつけないようにし、速やかに返済したというのであって、本件三〇〇〇万円をめぐる状況はこれと明らかに異なる。

以上の事情に照らすと、乙が本件三〇〇〇万円を返済するつもりなどなく、自分に贈られた金と考えていたことは明らかである。そして、Aが、これほど多額の金を個人として乙に贈ることができるはずもないこと、昭和六〇年七月までに交付を受けた一五〇〇万円については、Tからの金であると乙も認識していた旨法廷でも供述していること、本件三〇〇〇万円についても、資金捻出の関係上、Aが個人的に押上支店から一旦借り入れをする形を取った以外に、一五〇〇万円の場合と状況は異ならないこと、借り入れに際しては、Tの役員室で甲も深く関与の上話し合いがなされたことなどの事情に照らすと、乙としては三〇〇〇万円がTから贈られた金であると認識していたことも明らかである。

3 弁護人の主張について

ところで両被告人の弁護人は、Aの銀行からの借り入れに乙の身内の者が保証をしたりしていること、乙は一回目に受け取った五〇〇万円につき、利息分として一三万円をAに返していること、市長選終了後に余った金の返済を申し出ていること、乙が受け取った金が端数のある金であることなどを指摘し、これらは本件三〇〇〇万円がA個人からの借入金だったことを示す事情であると主張している。そこで、以下これらの点について検討する。

(一) まず、乙の身内による保証の点についてみると、前記証拠によれば、Aの銀行からの借り入れに際して乙の身内である甲が連帯保証し、さらに甲は乙の義兄のL3に対しても保証人になってほしい旨申し入れたことが認られる。

しかしながら、先に認定した一連の経緯によれば、Aや甲としては、Tが直接金を出すことができないため、一旦A個人が押上支店から金を借りる形をとり、事後的にTの経理処理によりこれを填補するつもりでいたのであるから、甲が連帯保証人となり、さらに乙の義兄に対して保証人になることを申し入れたのも、単に押上支店から融資を受ける必要上、その手配をしたにすぎないものと認められる(結局は、甲の連帯保証で足りることになった。)。したがって、乙の身内によるAの債務への保証などがあったからといって、それが本件三〇〇〇万円がAからの借入金であることを裏づけるとはいえない。

(二) 次に、金利分一三万円の返還についてみると、この点につき、Aは、捜査段階で、「Tから仮払い金として出した五〇〇万円については、Aが昭和六〇年八月三〇日に押上支店から借りた金から四八七万円穴埋めした。残りの一三万円については翌三一日に穴埋めがされているが、これについては良くわからない。おそらく経理のMが気をきかせて捻出し帳じりを合わせてくれたものと思う。」旨供述していたところ、公判においては、「三一日に乙がTに来たときに、一三万円の返済を要求し、これを経理担当のMに渡した。」「この事実については、捜査段階では思い出せなかったが、公判になって乙の弁護人が述べていることを聞いて思い出した。」旨供述している。そして、Aの公判供述によれば、一三万円の返還はA自らが乙に要求し、乙から直接受領したというのであるが、このように自ら直接行った特異な行為について捜査段階で思い出せなかったというのは、Aが裏金の捻出方法、乙とのやり取りの状況、利息に関する事情について詳細に記憶していることと比べて極めて不自然である。特にAは、乙に金を渡す際に、利息分を使い込んでいると思われてはいやだし、Tが借り入れまでして援助しているということを示す意味もあって、押上支店から利息が引かれているため端数のある金を渡した旨乙に説明したと捜査段階で述べていることにも照らすと、一回目の五〇〇万円を手渡す際に、一旦渡した金から、一三万円の返還を請求するという場合によっては失礼とも思われるような行動を敢えて取ったのだとすれば、一三万円の返還要求について思い出してよいように思われる。また、Tの裏金の処理で三〇〇〇万円を用立てたAが、一旦五〇〇万円を渡した後で、乙からわずか一三万円の返還を求めたというのも、いかにも不自然な行動である。

次に、一三万円を返済した状況についての乙の公判供述は、「Aに世話になったので、昭和六〇年八月三〇日に鬼怒川に招待したら、午後六時か七時ころAが乙方に来た。その時、Aは通帳を見せてこれが金利の一三万円ですなどと話をした。そして、今晩か明日か、とにかくすぐ一三万円を支払わなければならないという話だったのですぐに一三万円を渡した。」という旨のもので、一三万円を返還した日時、場所及び状況についてAと大幅に食い違っているのであるが、乙とAとの間の他の数回にわたる金銭授受について、その日時、場所及び授受の状況に関する両者の供述が相当具体的なところまで合致していることに照らすと、同じ金銭の授受に関する事実についてこのように大きな食い違いが生じるのは不自然である。

さらに、乙は捜査官に対してAとの間の金銭の授受について詳細に供述しているのであるが、右一三万円の授受については捜査段階において何ら供述していない。乙は、捜査官が借金であることを頭から否定する取り調べを行ったので一三万円の件について話すまでに至らなかった旨公判で供述するが、他方では、借入金の根拠として、受け取った金からは金利がひかれたことなどを捜査官に訴えていたというのであり、乙の自白調書の中にも、「心の中では借りたと思っていた。」旨記載されているものがあることや、市長選後に残った資金の返還を申し出たことなど、自己に有利な点についても供述していることに照らすと、一三万円の話を出さなかった理由に関する乙の供述は納得できない。

そうすると、一三万円の返還があったというA及び乙の公判供述はにわかに信用できない。そして、自ら関与した経理処理について詳細な記憶を有しているAの記憶に現れなかったこと及び一三万円程度の少額であれば、捻出することが比較的簡単と考えられることに照らすと、Aの捜査段階での供述のとおり、Aが関与していないまま右一三万円の填補がなされたものと考えられる。

(三) 次に市長選終了後乙が余った金の返還を申し出たとの点についてみると、前記証拠によれば、そもそも乙に交付された三〇〇〇万円は、何にでも使って良いとの趣旨で渡されたものではなく、市長選のための資金としていわば使途を特定されて渡されたものであること、また右金銭交付に際して、甲から乙に対し節約して使うよう指示がなされていることが認められるのであって、このような事情に照らせば、本来の使途である市長選に使用しなかった金について乙から返還の申し出があったとしても一向に不自然ではなく、右返還申し出があるからといって、金をもらったことと矛盾することにはならない。また、本件では端数のある金が交付されているが、先に認定したとおり、A名義で押上支店から融資を受け、その都度、利息が差し引かれてAの口座に入金となった金額の中から乙に手渡された関係上、そのような端数のある金が交付されただけのことであり、選挙資金という使途からみて三〇〇〇万円という正確な額が要求されたわけでもないのであるから、端数があるからといって、もらった金であるということと矛盾することにはならない。

4 結論

以上検討したとおりであって、三〇〇〇万円はもらったものであるとの被告人らの捜査段階での自白をまつまでもなく、本件三〇〇〇万円が、Aから乙に対する個人的な貸付ではなく、Tから乙に贈られたものであることは明らかである。

二  収受額

本件三〇〇〇万円の授受状況につき、Aは、昭和六〇年八月に五〇〇万円、同年一〇月に四九〇万円、同年一二月に九八〇万円、六一年二月に八六五万円を乙に渡した旨、公訴事実に沿った供述をし、乙も捜査段階においてはこれに沿う供述をしていたが、乙の妻乙2は受け取った金額がこれより少ない旨捜査段階から供述しており、公判においては、より具体的に、昭和六〇年一〇月に受け取った額は四一〇数万円、同年一二月に受け取った額は八一〇万円位、六一年二月に受け取った額は七九〇万円位である旨供述し、乙も公判ではこれに沿う供述をするようになっている。

そこで、まず。乙及び乙2の右供述の信用性について検討すると、同人らは、金額を確認した状況について「昭和六〇年一〇月、一二月、六一年二月のいずれの際も、Aが金を入れていた封筒に金額が記載されており、その額は、四一〇数万円、八一〇万円位、七九〇万円位であった。」旨供述し、また、昭和六一年二月に七九〇万円を受け取った後の出来事として、「七九〇万円を受け取った後に、Nに贈る金などとして帯封付きの一〇〇万円をAに渡したところ、後でAが、八〇万円しかなかった旨話をしてきた。乙2はこれを聞いて、札を束ねる帯が裏でねじれていたことにぴんときた。」旨供述している。そして、前記証拠によれば、Aが、右各現金を手渡す前に、同人が押上支店から得た額は、それぞれ四九〇万円余、九八〇万円余及び八六五万円余であったことが認められるから、仮に乙らの供述するとおり、Aがそれよりも低い金額を告げて乙に金を渡したのだとすると、Aが差額を横領したとしか考えられないし、また、一〇〇万円のつもりで渡したところ、後で八〇万円しかないといわれたとの点も、差額の二〇万円があらかじめ抜き取られていたとしか考えられないことになり、弁護人も弁論においてその可能性を指摘しているところである。

しかしながら、乙らの供述には、不自然な点が多々ある。すなわち、Aが銀行から借り入れた額については、同人の預金通帳に明記されていたのであるから、右通帳記載の額と実際に手渡された額に違いがあることが判明すれば、Aとしては自らの横領が容易に発覚する立場にあったのであるが、Tのためにも、乙と良好な関係を持つ必要のあったAが、何故にそのような行為を犯さなければならなかったのか、そもそも理解しにくいところである。そして、乙らの供述によれば、Aは一度通帳を乙に見せたことがあっただけでなく、金を入れた袋の表紙に銀行から借りたものより低い額をわざわざ記載して乙らに差し出したというのであって、このようにAが自らの横領の証拠とされかねないような記載のされた物をわざわざ乙に手渡したのは、誠に不自然である。また、一〇〇万円のはずが八〇万円しかなかったとAが言ってきたこと(なお、A自身は右事実を否定している。)についても、何故、Aがわざわざ自らに横領の嫌疑をかけられかねない事実を言ってきたのか理解できないし、さらに、帯封されていない金からなら容易に抜き取れるのに、Aは金が抜き取りにくく、金を抜き取れば、形状や厚さの違いが一目でわかり犯行が発覚しやすいにもかかわらず、何故敢えて帯封から金を抜き取ったのか理解困難であって、この点に関する乙らの供述は誠に不自然というほかない。このような事情に加えて、乙2は乙の妻であり、公判において、金の授受の性格などに関して乙と歩調を合わせて客観的事実に反する供述をしていることをも併せ考慮すると、Aから授受した額についての乙と乙2の供述は信用できない。

そして、前記証拠によれば、Aは、昭和六〇年七月までに乙に渡した一五〇〇万円及び同年八月に渡した五〇〇万円について、その中から一部を抜き取ることもなく、全額手渡していたことが認められ、また、証拠上、乙に渡す金から一部を抜き取らなければならない事情も窺われないから、公訴事実通りの金を乙に渡したというAの供述は十分信用できる。

三  立候補決意の時期

1 先にも認定したとおり、Cと乙とは今市市を二分する政治勢力であったこと、C市政に対して批判が高まり、昭和五七年の今市市長選では、乙後援会の青年部を中心として乙が市長選に出馬すべきとの意見が強力に出たが、その時は、Cへの申入れをすることで終わったこと、しかし、その後もCが態度を改めないなどとして市政に対する批判は続いていたこと、乙としてもCの四選は阻止しなければならないと考えていたこと、昭和六〇年二月の後援会青年部の会合で、乙が市長選に出るべきだとの意見が再び強力に出され、乙に直談判する者もいたこと、その後も乙が市長選に出馬すべきだとの声は強まったこと、Cの右腕とされたFにおいても、同年五月ころ、乙が市長選に出馬することを前提に、乙派と目されるTがCの機嫌を損ねないため金を贈るべきだとAに忠告し、Aは甲と相談の上、これに応じることとし、同年七月中旬ころ、Cに一〇〇〇万円を供与したこと、同年六月ころ、市議会の会派がC派と反C派に分裂したこと、同年七月の京屋ホテルの会合で乙の市長選出馬を求める声があいつぎ、翌日の新聞に、乙が出馬を表明した旨の記事が掲載されたこと、同年八月初旬、乙は、Tで甲及びAと選挙情勢を話し合った上、選挙資金として三〇〇〇万円を同年八月から選挙直前である翌年三月にかけて五回に分割して受け取る旨の合意ができたこと、昭和六〇年八月初旬ころから乙の後援会組織が強化されてその活動が活発化し、乙も右選挙資金をおおむね約束通り受けとって右活動等に使ったこと、翌年四月の市長選にはCと乙が出馬し、乙が当選したことが認められる。

そして、右経緯に対する関係者の供述についてみると、Aは、昭和六〇年七月に、乙から資金援助を要請された段階で、すでに乙から市長選へ出馬する意思を伝えられていた旨捜査公判を通じて供述し、京屋ホテルの会合に参加した猪瀬次郎は、京屋ホテルの会合で乙が市長選に立候補すると感じた旨公判で供述し、また乙後援会の者も右会合で乙が出馬を表明したと供述し、後援会の者多数に選挙運動資金が配られた昭和六一年一月時点で選挙戦はすでに終盤にさしかかっていたと供述する者もいるのであるが、右各供述は、前記一連の経緯に照らして十分信用できる。

これらの事情、特に昭和六〇年八月初旬の時点で、選挙直前の翌年三月まで分割して三〇〇〇万円の資金援助を行うという約束ができていたことに照らすと、右八月初旬の時点で、乙としては、すでにいわゆる瀬踏みの段階を越えて、翌年の今市市長選への出馬を決意し、これを外部に向けて表明するとともに、市長選の準備活動に入っていたと認められる。

なお、乙は、公判において、同年八月初旬の時点では、自らは県議会議長になりたいという気があり、市長選に立候補しようとは思っておらず、他の市長候補を探している状態であった、同月初旬に選挙資金を得て後援会活動を活発化させたが、これは自分が立候補しなくとも、市長候補を見つけ、自らの後援会を用いて支援していこうとのつもりであった、実際に数名の者に対して立候補の働きかけをしたが結局不調に終わり、同年一一月下旬ころになって自らが出馬することを決意した旨供述している。しかしながら、先にもみたとおり、昭和六〇年七月当時、翌年の市長選においてCと争うのは乙をおいて他にはいないと多くの者が考えており、乙に代わるべき有力な候補者がいたことを窺わせる事情は証拠上認められない。そして、この点に関して、乙は証人として証言したAの公判において、前記京屋ホテルの会合で「一生懸命四選ストップの人材を探したが、事ここへきて、いないんだ。」と挨拶した旨供述しているのである。しかも、乙は、市長選まで半年余りとなった時点において、別の候補者を立てようとしていた旨公判で供述するのであるが、その内容は、渡邊保、高野栄一及び江連親一郎に対して立候補の打診をした、うち、渡邊と高野については昭和六〇年七月の時点で断られており、以後打診はしていない、江連には七月二〇日ころの時点で打診して色好い返事をもらえず、八月二〇日ころに打診したが断られ、それから二か月以上過ぎた一一月初めに再び話をしたが結局断られたというものであって、余りにもあっさりしたものというほかなく、自ら責任を持って候補者を見つけ、C四選を絶対阻止する、自ら資金を調達し、自分の後援会を使ってでも自分の見つけた候補者を支援するという意思だったという乙の公判供述などにも照らして、不自然である。また、乙の後援会、特にその青年部は乙に対して強力に出馬を迫っていたのであり、後援会の者にとって、乙が市長選に立候補する意思なのか、それとも別の者に出馬させる意思なのかは極めて重要な問題であったはずであるし、乙に対して多額の選挙資金を提供したTにとっても、この点は同様であったはずである。ところが、乙の公判供述によれば、乙は自らが出馬するつもりがないにもかかわらず、これを後援会の者に明らかにすることもなく、事実上の選挙活動を行わせ、また、自らは出馬する意思がないことを少なくともAに告げずに、市長選のための資金として三〇〇〇万円も調達したことになるのであって、この点もいかにも不自然である。そして、そもそも、乙は、「昭和六〇年八月の時点では立候補する意思は一〇〇パーセントなかった。」と一方では述べながら、前記Aの公判では、「昭和六〇年八月に、市長選に出ることになったので金がいるとAに話をした。」と正反対のことを述べるなど、法廷における供述が一貫しないのである。

以上の通りであるから、立候補を決意した時期に関する乙の公判での供述は信用できない。

2 「公務員タラントスル者」の解釈

弁護人は、公選によって公務員になろうとする者が事前収賄罪における「公務員タラントスル者」に該当するためには、選挙に立候補していることが必要であり、現金授受の時点において未だ今市市長選挙に立候補していなかった乙には事前収賄罪は成立しないと主張する。

しかしながら、刑法一九七条二項の「公務員タラントスル者」という文言に照らすならば、立候補の手続がなされない限りはこれにあたらないという、極めて限定した解釈をするのは妥当とはいえないのであって、単に立候補して公務員になろうという内心の希望を持つだけでは足りないとしても、少なくとも、本件のように、立候補を決意してこれを表明し、選挙に向けての準備活動に入っているような場合は、立候補届出以前であっても、「公務員タラントスル者」に該当すると解釈するのが自然である(なお、弁護人指摘のごとく、「公務員タラントスル者」として公選による議員に立候補している者を挙げている文献があるが、これは単に一つの例として記載しているに過ぎないのであって、右の場合に限るという趣旨とは思われない。)。そして、事前収賄罪では、収賄後、現実に当選して公務員になった場合に初めて処罰されるのであるから、このように解釈しても何ら処罰対象を広げすぎて不都合であるとはいえない。

四  請託について

被告人両名及びAは、捜査段階において、乙に対する金銭供与が乙の市長就任後、T建設を公共工事の指名等において、同業他社とりわけGよりも有利に取り扱ってほしいとの請託のもとになされた旨自白していたが、本件公判において、いずれもそのような請託はなかった、捜査段階における自白は取調官の強制などによるものであって、真実と反する旨供述している。そこで、まず、被告人両名及びAの捜査段階における供述をひとまず措き、それ以外の証拠を検討すると、以下1ないし3の事情を指摘することができる。

1 Tの置かれた状況

先に認定したとおり、Tは、乙派と目されていたこともあって、Aを中心として、C市政下において市発注工事を受注するため、さまざまな苦労をしていたこと、特に、利益の大きい学校建築工事においては、C派と目されているGとの間で競争していたが、昭和六〇年に入り、市長選へ向けての動きが活発になったころからは、選挙の関係でCの締めつけを恐れ、落合東小の受注を目指したが、結局Gとの間で叩き合いとなり、ほとんど利益を期待できないような価格での落札を余儀なくされたこと、その後に発注が予定されていた南原小についても叩き合いが行われ、Gとの事前調整をすることが困難になっていたこと、また、Cの腹心であるFから、Cによる制裁があるかもしれないと警告を受け、南原小の指名を外されるのではないかと恐れて、Cに対して一〇〇〇万円の賄賂の供与を申し出たが、ゴルフコンペの最中に多数の者の面前で、Cから「Tは馬鹿だ。」などと批判をされ、右一〇〇〇万円を贈った後も、Cの意を受けた助役から南原小の指名辞退を迫られるなど散々といってもよい扱いを受けていたこと、他方、今市市長は、このような市発注工事の業者指名等において強大な権限を有しており、Tと関係の深い乙が市長に就任した場合、右権限の行使によって、Tを有利に扱うことが可能であったことが認められる。

2 贈られた金額

Aとしては、本件三〇〇〇万円について話がされる前の時点では、乙への支援としてTから出す金としては会社の規模からして一五〇〇万円から二〇〇〇万円が限界であろうと考えていたこと、ところが、昭和六〇年七月までにすでに乙に対して一五〇〇万円を出しており、また、Cに対しても一〇〇〇万円を出すはめになったこと、したがって、この上さらに乙に対して三〇〇〇万円を出すことは全体で五五〇〇万円の支出をTにもたらすこととなり、当初予定していた援助額をはるかに超えることとなって、これだけの金を出すことはTの屋台骨を揺るがしかねないと考えられたこと、そのため、一旦は、Aが銀行から資金を借りることにした上、複雑な経理操作を行って、最終的にTから資金を捻出したこと、またTからの資金援助は、乙が昭和六一年の市長選で使った金のかなりの部分を占めたことが認められる。

3 便宜供与

乙が市長就任直後にTを訪れた際、少なくともAが乙に対して、同年六月に発注が予定されている大沢中学校工事につき、「大沢中は一括発注にして下さい。」と頼み、さらに「TとGを一緒に扱っては不公平だ。」と述べ、乙も「検討してみる。」と答えたこと、その後、乙は職員に命じて発注方針を検討させ、従来の分離発注を一括発注に改めたこと、また、大沢中工事の業者指名に際して、従来の実績に照らして当然Gが指名されるものと考えられており、学校教育課の職員もGを指名業者に入れて乙に対し案を出してきたところ、乙はGや他の県内業者を指名から外したこと、入札当日朝、乙方を甲が訪れて大沢中の予定価格を尋ね、乙は一旦断ったものの、同日午前九時三〇分ころ、Tに電話をかけて、予定価格の上三桁を甲に教えたことが認められる。

4 便宜供与に関する争点について

なお、乙は、大沢中の発注における業者指名の仕方や発注方式を一括発注にしたことのいずれにも合理的理由があったのであり、乙がTの便宜を図ったものではない、また、予定価格については、三桁でなく二桁しか教えていないと供述しているので、この点について順に検討する。

(一) 便宜供与の有無

まず、業者指名の仕方についてみると、前記証拠によれば、入札前に指名された業者間で話し合いの上落札業者が決められていたこと、それまで学校建築の本体工事は、GとTが右話し合いなどを通じて受注を分け合っているような状態であったこと、それ以外の指名業者は、TやGに比べて規模が小さく、実績もなく、施工能力も劣っていたこと、大沢中の業者指名に際し、指名選考委員会で、年間受注額の比較的少ない業者が指名されているが、大規模工事については再検討したらどうかとの意見が出されたほどであったこと、全国規模の業者は、地元企業が優先的に取りたい意思を示せば譲歩しており、大沢中についても、指名後、業者間で速やかに話し合いがなされ、Tが受注することが合意され、結局、Tは大沢中の工事をほぼ予定通りの価格で落札したことが認められるのであって、これらの事情に照らすと、Gを抜いたという右指名が、Tに有利な結果をもたらすものであったことは明らかである。

そこで、このような指名の仕方がTへの便宜供与に当たるのかとの点について検討する。

まず、大沢中工事及びこれと同時期に入札がなされた他の中学校などの工事の業者指名に関して乙が行ったやり方について、乙は、「大沢中学校舎等の工事、今市中学校体育館及び落合西小学校体育館の三つについて教育委員会学校教育課長のQが持ってきた指名案を変更させた。大沢中について九業者、その他についてそれぞれ七業者指名することにした上、まず、各工事に東京の大手業者を割り振りし、その後、業者のランク表をもとに、Aランク、Bランクの業者をランク表に記載された順に三校に割り振っていった。」旨供述している。ところで、前記証拠によれば、右各工事の設計価格は、大沢中約七億二〇〇〇万円、今市中約一億八〇〇〇万円、落合西小約九〇〇〇万円と、三つの工事の規模には大きな違いがあったと認められるにもかかわらず、乙は、指名業者数に若干の違いをつけた以外は、三工事とも同一基準による指名を行っている。また、同じランクの業者であっても、会社の規模や実績等には違いがあるにもかかわらず、この点も考慮しておらず、さらに、指名した業者が他に大規模工事を抱えていないか、施工能力に不安を抱かせるような特別な事情がないかを全く考慮せず、その調査さえさせていないのであり、指名は極めて機械的、形式的に行われたことが認められる。

ところで、前記証拠によれば、業者指名に関与する市の職員や建設業者間においては、大沢中本体工事にGが指名されるのが当然という認識であったことが認められるのであるが、乙は、敢えてGを右工事の指名から外した理由につき、捜査及び公判で、「Gについては、当時Gが南原小の工事を受注しており、受注機会の均等化を図る必要があったこと、Gが南原小の工事をしているため大沢中工事の施工能力に問題があったこと、また大沢中が南原小と近接工事になる点でも問題があったことなどを考慮し、大沢中工事の指名から外した。」旨述べている。しかしながら、右指名のやり方は、恣意的というほかない。すなわちG以外の業者については、先にもみたとおり、工事内容や業者の実態等を何ら考慮せず、業者のランクに基づき機械的に指名していたにもかかわらず、ことGについては、南原小工事の進捗状況、Gの施工能力や過去に起こした手抜き工事、他の工事との近接の度合い等、他の業者の指名に当たっては何ら考慮していないような個別的具体的事情を挙げて大沢中の指名から外しているのであって、指名方法についてあからさまな違いをつけているというほかないのである。

また、右個別的事情についても、例えば、前年の学校建築工事で、落合東小を受注したTが、半年後に再び同一年度の南原小の工事で指名を受けており、この点について受注機会の均等化の点から関題があるといった具体的な批判があった形跡は証拠上見受けられない。そもそも受注業者になるかどうかの前段階にすぎない指名まで外すという形で均等化を図らねばならなかったことについて納得できる事情はなく、さらに昭和六〇年度受注工事の進捗状況を六一年度受注工事の業者指名に反映させなければならなかった理由も、他の業者に対してそのような考慮をしていないことにも照らすと必ずしも納得できるものではない。

このような事情に加えて、先にもみたとおり、乙は、Tに選挙資金の大半を援助してもらっており、市長就任後、GよりもTを有利に扱ってほしい旨要請を受け、さらに、T社長の甲に入札予定価格を教えていることなど、甲やAから、あからさまといってよい形で具体的に市発注工事での有利な取扱いを求められ、これに応じた経過に照らすと、大沢中の指名からGを抜いたことはTに対する便宜供与といわざるをえない。また、分離発注を一括発注に変更したことについては、確かに分離発注では問題があるとの指摘がなされていたとの事情は窺えるものの、一括発注はTがかねてから希望していたものであることや分離発注で進んでいた手続を急きょ一括発注に変更した経緯にも照らすと、乙が大沢中発注に関し、Gを指名からはずすことで便宜を図っていたことと相まって、一括発注に変更することについても、Tへの便宜を図るという意思も働いた上でのものであったことは否定できない。

(二) 漏洩した予定価格の内容

乙が甲に教えた予定価格について、捜査段階で甲は上三桁を教えてもらったと供述し、乙も最終的には同様の供述をしていたが、公判に至って、甲は二桁か三桁かはっきりしないと述べ、乙は二桁だけ教えたと供述している。

そこで検討すると、前記証拠によれば、市発注工事においては、入札の最高制限価格である予定価格以下の価格でないと落札できないこと、甲が予定価格を教えてもらった後、Eが甲に対して入札価格案を見せに来たが、右案の内容は、一回目が七億〇三〇〇万円、二回目が六億九四〇〇万円、三回目が六億九〇〇〇万円であったこと、甲は右案を見て、右金額を算出した根拠などを確認することもなく、「こんなところでいいだろう。」と述べてこれを了承したことが認められるのであって、右事実によれば、甲は予定価格が最低でも六億九〇〇〇万円であることを知っていたことが明らかである。ところで、乙は、教えた内容について、「七〇、六九、六八、その付近の常識の範囲ですよ。」と教えた、すなわち、予定価格は七億円、六億九〇〇〇万円、あるいは六億八〇〇〇万円付近であるという意味のことを甲に教えた旨一貫して供述しているのであるが、これでは予定価格が六億八〇〇〇万円である可能性を否定することができず、三回目を六億九〇〇〇万円で入札するTが落札できないおそれがあるのであり、甲がEの出してきた案に異を唱えなかったという先に認定した事実にそぐわないというほかない。したがって、乙の右供述は信用できない。

そして、先に認定した事実に加え、甲が捜査段階において予定価格を三桁教えてもらった旨供述し(なお、甲の捜査段階における供述は、後に検討するとおり信用できる。)、公判でも明確に二桁と供述していないことに照らすと、乙が教えたのは予定価格の上三桁であったと認められる。

5 まとめ

以上検討した事実を総合すると、まず1でみたとおりC市政下において苦しい立場におかれていたTが、乙の市長選に対して資金援助を行うことにより、その見返りとして、乙が強大な権限を持つ市長に就任した際にはTを市発注工事において有利に扱うよう求めることは十分あり得ると考えられるところ、2でみたとおり、乙に贈られた金は昭和六〇年七月までに交付された金をも合わせると四五〇〇万円と極めて多額で、乙の選挙資金のかなりの部分をカバーし、Tにとっても、相当無理をして捻出したものであるから、営利を目的とするTにおいて、ここまでも援助をすることとの引き替えに、乙が市長になった際に便宜を図ってほしいとの意図が生じるのは自然な成り行きということができ、しかも、3、4、でみたとおり、乙の市長就任後、甲やAから乙に対してあからさまに具体的便宜供与を求める要求がなされ、乙もまた大沢中工事の業者指名や予定価格漏洩により、これに応じていると認められるのであって、右一連の経緯によれば、三〇〇〇万円援助の話し合いの際に、乙と甲及びAとの間で市発注の公共工事に関してTの便宜を図る旨の請託がなされ、乙は、これに基づいてTに対して各種の便宜を図っていたことが強く推認されるところである。

そこで、この点に関する被告人らの捜査段階での自白について、項を改めて検討する。

第五  捜査段階における自白の任意性及び信用性

一  被告人両名は、捜査段階で公訴事実を自白する供述をしていたが、公判段階では右自白を翻すとともに、右自白は違法不当な取調べにより得られたもので任意性を欠くと主張している。当裁判所は、第一二五回公判期日において、理由の概要を告げた上、被告人両名の捜査段階における供述調書につき証拠採否の決定を行ったが、以下、右理由についてここで敷衍して述べることとする。

二  乙の自白の任意性について

1 取調時間

乙は、昭和六二年二月二五日の逮捕後自白を始めた同年三月四日まで、朝八時三〇分ころから夜一二時ころまで一二時間近く取調べが続き、入房が午前一時ころになったこともあったと公判で述べているが、司法警察員作成の平成三年一月二四日付け及び同年二月四日付け各留置関係簿冊作成報告書によると、右期間中の取調開始時刻はおおむね午前一〇時前後、取調終了時刻はおおむね午後一〇時三〇分前後であり平均取調時間は九時間前後であったこと、その後同年三月一八日の起訴に至るまでの取調時間も一日五時間から九時間程度であったこと、全期間を通じ、留置場への入場時間が夜一一時台になったのは、同年二月二八日の一一時と翌三月一日の一一時五分の二回であったことが認められる。そして、本件事案の重大性や供述の重要性に加え、乙らが本件三〇〇〇万円についてA個人から借りたものである旨、客観的事情に照らして首肯しがたい弁解をしていたことにも照らすと、右の程度の時間をかけて取調べをしたことが許容限度を超えるとはいえない。

2 捜査官による暴行等

乙は、警察官が「とっておきのことをやってやる。」などと言って暴行をふるうような様子を示したり、あるいは事実を否認した乙に対して検察官が殴りかかったことがあった、また、警察官に手を取られ指印を無理強いさせられた旨公判で述べている。しかしながら、乙の公判供述にれば、乙は、捜査段階において、弁護人と頻繁に接見し、自白をした経緯についても話をしていたというにもかかわらず、このような重大な事実(乙によれば、検察官に殴りかかられた精神的ショックでラジオが聞こえなくなるほどだったというのである。)について弁護人に訴えた形跡は窺えない。さらに、乙が指印を無理強いされたという昭和六二年三月七日付けの供述調書についても、右調書中の指印部分に無理強いを窺わせる形跡はないし、また、乙によれば、右調書の署名部分は乙自身が書いたというのであって、署名を自ら行いながら指印のみ拒否したというのも不自然である。

3 捜査官による偽計

乙は、取調べに際して、警察官から次のような虚偽事実、すなわち、甲は自白している、乙の教え子であるO建設の社長が新聞で乙を誹謗している、あるいはTが金の穴埋めをした以上、結果論として犯罪が成立するなどといったことを告げられた旨公判で述べている。

しかしながら、乙の公判供述によれば、乙としては甲が自白したという警察官の供述について半信半疑であり、接見時に弁護人に対して事実の確認を求めたというのであるが、その回答を待たずに自白したと述べるなど不自然なところがあるし、またその後これが虚偽であることが分かって何らかの対処をしたというような形跡も乙の行動上見られず、甲が自白したとする偽計があったという供述自体を全面的に信用できるか疑問がある。そして、そもそも、乙は甲の自白に関する捜査官の言葉を信用していなかったとも法廷で供述しているのであるから、これと自白との因果関係を欠く。また、O建設の社長による誹謗の件についても、乙は、当初弁護人からの質問に対しては、「Oが乙は無力な男だなどと新聞で述べている旨警察官から告げられ、その部分を読んで確認した。」かのように述べておきながら、検察官からの質問に際して、右部分にはすぐ後に「乙派市議」という発言者を示す括弧書きがある旨指摘されると、この部分は読んでおらず、読んでいたのは別の部分であると供述を変転させているし、そもそも、文面自体から発言者が容易に特定できるような記事を乙に読ませておきながら、右記事の発言者について捜査官が偽計を行うというのも不自然である。さらに、Tが金の穴埋めをした以上、結果論として犯罪が成立すると告げられたため自白したとの点についても、乙は、当時、そのような解釈は成り立たない旨弁護人や検察官から話を聞いていた旨供述していることに照らして不自然である。

4 捜査官による利益誘導

乙は、自白すればAらを釈放するし、乙も実刑にならない、自白しないと近親者を逮捕するなどと捜査官から告げられ、自白したと公判で述べている。

しかしながら、乙は、自白以前の段階で弁護人と量刑の見通しについて相談し、本件では事実を認めれば実刑になると言われていたとも供述しているのであって、法律の専門家である弁護人からこのような助言を受けていながら、やすやすと捜査官の言葉を信用して自白したというのは不自然であるし、自白してもAらが保釈されなかった点について、乙が不服を申し立てたような形跡もないのであって、利益誘導があったという右供述はにわかに信用できない。また、近親者を逮捕するとの点についても、乙の供述によれば、逮捕の被疑事実として考えていたのは法定費用超過の選挙違反等であったというのであり、実刑になるといわれていた程の重大事案であった乙の事前収賄等に比べると軽微なものであるし、乙は、この点について弁護人に相談したというのであるが、その際も捜査官の言動を脅しと認識し断固頑張っていたというのであるから、これと自白との間に因果関係があるとはいえない。

5 無力感を利用した取調べ

弁護人は、長時間の取調べ、暴行、偽計、利益誘導など様々な事実が乙に無力感を植えつけ、捜査官はこれを利用して取調べを行ったと主張し、乙もこれに沿う供述をしているが、右の各事実に関する乙の公判での供述には、誇張された点や不自然な点があるのは先に検討したとおりであり、その信用性には全体として疑いがある。そして、乙の各供述調書や前記留置関係簿冊作成報告書及び佐渡賢一の証言等によれば、一旦自白がなされた後も、供述調書中に「内心では借りるつもりだった。」といった表現がなされているなど、乙としてはなお自らの主張を盛り込もうとしていたこと、また逮捕前から弁護士と相談をし、逮捕後も連日またはほぼ一日おきに接見をしていたことが認められ、さらに、弁護士や勾留中の乙を診察した医師に対してはもうろう状態を察知されまいと努力していたなどと述べていることにも照らすと、乙が精神的に追い込まれるほどの無力状態にはなかったと認められる。

三  甲の自白の任意性について

1 Cに対する賄賂の自白について

弁護人は、Cに対する賄賂を認めた自白調書は、寒い時期に体調不良の下で長時間にわたり取調べがなされ、捜査官による利益誘導などもなされた結果得られたものであると主張し、甲も公判でこれに沿う供述をしている。

そこで検討すると、司法警察員作成の平成三年二月七日付け留置関係簿冊作成報告書によれば、甲が昭和六二年一月一七日Cに対する贈賄で逮捕されてから初めて自白調書の作成された同月二四日までの取調べは、おおむね午後に開始され、早い時で午後五時過ぎ遅い時で午後一一時近くに終了しており、取調時間は平均して六時間前後であったこと(なお、同月二五日から右の件で起訴される翌二月七日までの間についてみると、起訴直前の四日間ほどは七ないし一〇時間前後の取調がなされているが、他はほとんど一ないし三時間前後である。)、甲は痔を患っていたが、捜査官側もこの点について一応配慮しており(塩崎哲夫及び古森八郎の各証言)、弁護人が検察官に対し取調べのあり方について申し入れをした際に、この点を特に取り上げた形跡がないこと(佐渡の証言)が認められ、右事実によれば、甲が自白に至るまでの取調状況が任意性を欠くほどの過酷なものであったとはいえない。

また、甲は、否認を続けるとTの他の役員も逮捕する旨捜査官から言われたため、Aに合わせた供述をするに至った旨公判で述べているが、同時に、役員が逮捕されるとは思っていなかった、捜査官の脅しと思ったなどと矛盾することを述べ、他方では、Aの供述を示されて記憶を呼び起こして供述したとも述べるなど、供述があいまいである。そして、甲が、「一〇〇〇万円には最悪の事態になっても指名をはずさないでもらいたいという趣旨も含まれていた。」「Bのことは事前には聞いていなかった。」などと、金の趣旨や共謀状況に関し、公判においても捜査段階における自白調書とほぼ同じことを述べていることにも照らすと、捜査官の追及を受けた場合、記憶を呼び起こしたという右供述を信用することができる。したがって、この点においても、甲の自白の任意性に疑いを生じさせるような事情はなかったと認められる。

2 乙への金員供与を認めた自白について

甲は、昭和六二年二月四日付け、同月九日付け及び同月一二日付けの捜査官に対する各供述調書において、乙に対してTから四五〇〇万円を贈った旨自白したが、これは、乙への金員供与について自白しても事件にしない旨捜査官が偽計を用いて自白させたものであると供述している。

そこで検討すると、塩崎、古森及び佐渡の各証言、神山祐一の検察官に対する供述調書並びに当裁判所に提示された甲の捜査段階における各供述調書によれば、甲は逮捕前から乙への疑惑波及をおそれ、隠滅工作をしていたこと、捜査時においても「一日も早く事件の収束と会社の立ち直りを願う。」(同年一月二五日付け司法警察員に対する供述調書)と述べたり、乙への金員供与を初めて認めた同年二月四日付け検察官に対する供述調書中でも、「供述しないと乙に対する疑惑をもたれるおそれがあると思い自分なりの事実を明らかにしておきたい。」旨述べていたこと、ところが、乙や自分が事前収賄等の被疑事実により同月二五日に再逮捕されるに至って、乙に対する現金供与を一転して否認し、金は個人的な貸付けであると供述するようになり、以後同年三月一四日になるまでこれを維持したことが認められる。これらの事実によれば、甲は、乙に対する金員供与を自白しても乙が罪を問われることはないと考えて一旦自白し、案に相違して自分も乙も事前収賄等の被疑事実で逮捕されるに至ったため、否認に転じたものと認められる。

なお、この点につき、検察官は、甲が「取調官の茅島和美から乙を逮捕するかどうかは不明であると告げられた。」旨公判で供述していることなどを指摘して、甲としては金員供与を自白すれば乙が罪に問われるおそれがあることを認識していたはずであると主張する。しかし、茅島の証言によれば、同人が甲を調べたのは逮捕当日の同年一月一七日と、二月一四日から二四日ころまでであったというのであるから、仮に甲が茅島から先のような言葉を聞いたのだとしても、それはすでに自白をした後である可能性が高い。そして、先に指摘した各事実によれば、甲としては自分が自白しても乙が罪に問われない可能性を否定できないところである。

ところで、塩崎及び古森の証言並びに甲の公判供述によれば、甲は、捜査官に対して供述することとしないことをはっきり区別し、時には完全黙秘をすることもあるなど、供述態度は冷静かつ慎重であったこと、Cに対する贈賄の件での勾留中に乙に対する件についても取調べを受けた際、それは逮捕事実になっていないなどとして、かたくなに供述を拒んでいたことが認められるのであって、乙への金員供与を自白すれば、乙への疑惑追及がなされると常識的には考えられるにもかかわらず、甲が敢えて自白に至ったという背景には何らかの特別な事情があったのではないかとの疑いが生じるところである。そして、古森の証言及び甲の公判供述によれば、甲は、捜査段階における弁護人との接見時に、「警察は五月のひな祭りはやらない(警察は乙が金をもらったことを追及しないとの趣旨)と言っていた。」旨体験した者でないと思いつかないような表現で話をしていること、乙への贈賄等で逮捕された後、甲は捜査官に対して、「警察は嘘をつく。」と言って取調に応じようとしなかったことが認められ、また、公判においても、自白の任意性に関わる最も重要な事情として、嘘をつかれたことを繰り返し述べているのであって、これらの事実に照らすと、これを否定する塩崎らの証言を考慮に入れたとしても、なお、甲が法廷で供述するような事実があったのではないかとの疑いを否定できない。

したがって前記昭和六二年二月四日付け、同月九日付け及び同月一二日付けの各供述調書は、捜査官の偽計及びこれによる影響下でなされた疑いが否定できず、任意性に問題がある。なお、右二月四日付け検察官に対する供述調書には、Cに関する事実も供述されているが、乙に関する供述部分が調書の大部分を占めており、Cに関する部分もTの経理処理等乙に関する事実とからめて供述されているのであるから、Cに関する事実の部分のみについて任意性を認めることはできない。

3 再逮捕後の自白について

乙に対する贈賄等で再び逮捕された後の甲の自白について、弁護人は、すでに甲は長期にわたり勾留されていた上、再び連日深夜に及ぶまで取り調べを受けて体調も悪化し、さらに、先に述べたような捜査官の偽計や息子のL2弁護士が偽装工作をしたとして何らかの処分を受けるかのように捜査官からほのめかされたことなどから、絶望的な心境になって自白したものであると主張し、甲も公判でこれに沿う供述をしている。

そこで、まず、取調べの状況についてみると、前記留置関係簿冊作成報告書によれば、再逮捕後の取調時間は、平均して八、九時間前後であり、供述調書が作成されるようになった同年三月九日ころからはときどき一〇時間を超えており、長時間になっていることが認められるが、このように取調時間が長くなったのは甲がそれまでの供述を翻して否認に転じたといった事情によると考えられ、右期間中比較的多くの供述調書が作成され、これにかかった時間も含まれることにも照らすと、限度を超えるほどの取調時間であったとはいえない。また、捜査官においても、甲の体調について一応の配慮をしており、甲から具合が悪いので医者を呼んでほしいとの申し出はなかったことが認められ(古森の証言)、さらに、甲は全勾留期間を通じて、連日ないし最大でも三日おきに弁護人と接見をしていた(前記留置関係簿冊作成報告書)ところ、体調の不調により虚偽の自白をしかねないようなことを訴えた形跡は甲の公判供述上も窺えないのであって、体調の状態が供述に影響を及ぼすほどのものになっていたとまではいえない。そして、何よりも、甲は、再逮捕以後はそれまでの自白をも翻し、金がTから贈られたものであること及び請託の有無という中心となる事実について同年三月一四日まで一八日間にわたり一貫して否認を続け、捜査官においても、自白する見込みが薄いと考えて重要部分について否認のまま供述調書を作成していたと認められる(古森の証言、甲の公判供述)のであるから、再逮捕後同日までの間甲が自らの意思に基づき供述していたことは明らかである。なお、先に述べたとおり、甲は捜査官の偽計により一旦自白した疑いがあるが、再逮捕後は右自白を翻して否認しているのであるから、右偽計の影響は遮断されており、再逮捕後の供述の任意性との間には因果関係を欠くというべきである。

ところで、甲は同月一五日朝になって、突如すべて自白する旨取調官に申し出、以後、金銭授受の性格や請託について全面的に自白したことが認められる(古森の証言、甲の公判供述)。このように自白に転じた理由につき、甲は、「もうこれ以上否認を続けると体がまいってしまう、警察も検事も嘘をいうのだから苦しさから逃れるためAの供述に合わせた供述をしても許されるんじゃないか、法廷で本当のことを話そうという気になって自白した。」と述べる。しかしながら、先にもみたとおり、甲は時には完全黙秘するなどして慎重に供述をしてきており、再逮捕後は当初の自白を翻して一貫して否認を続け、検察官も否認のまま調書を作成するという状況にあったことや、勾留期間満了までわずか三日間となった段階で突如自白するに至った経過の特異性に照らすと、取調に精魂尽き果て、苦しさから解放されたいがために自白したというのは理解しにくいし、まして、捜査官が嘘をつくから自分も嘘をついていいという気持ちになったというのは甲の供述態度や弁護人ともたびたび接見していた状況に照らして、信用しがたい。また、甲は、捜査官の言葉等から、否認を続けるかぎりL2弁護士への処分があるのではないかと考えた旨公判で供述してもいるが、先にもみたとおり、甲は、乙に対する金員の供与について自白しても乙が罪を問われることはないかのような捜査官の言葉を信用して自白したものの、これが裏切られたため捜査官に強い不信感を抱いており、自らの供述内容と他の者に対する刑事処分を取り引きしても、結局は両者とも捜査官側に都合のいい結果を得られてしまうという認識でいたと考えられるのであるから、再び捜査官を信用して、否認すれば捜査側がL2弁護士への処分をし、自白すればそれをしないと考えて供述したというのもにわかに信用しがたい。

そして、それまでの甲の慎重な供述態度に照らせば、自白もやむなしと決断させるだけの何らかの事情が他にあったのではないかと考えられるところ、自白開始直後に作成された供述調書中には「これまで、乙やAへの義理立てから自分から真実を話すわけにはいかないと思ってきたが、事実が明らかになってきた以上、自分だけ何も語らず責任を乙らに押し付けられないと思って真実を話すこととした。」旨の記載があり(昭和六二年三月一五日付け司法警察員に対する供述調書及び同日付け検察官に対する供述調書)、右記載内容は、当時乙やAが自白するに至り、ひとり甲のみが否認を続けていたという状況にも沿い、甲の性格やそれまでの供述態度、さらに突然一挙に自白したという経過から見ても自然で納得できるものであって、甲が自白した理由は右記載のとおりであったと認められる。

四  自白の任意性についての結論

以上検討したところによれば、甲の昭和六二年二月四日付け検察官に対する供述調書並びに同月九日付け及び同月一二日付け司法警察員に対する各供述調書については、任意性に疑いがあるというべきであって、甲に対する関係で証拠としては採用できない。また、右二月四日付け供述調書は、乙に対する関係で刑訴法三二一条一項二号の書面としても請求されているが、右のとおり任意性に問題がある以上、いわゆる特信性に問題があるというべきであって、採用できない。被告人両名のその余の各供述調書については、任意性、特信性ともに認められるから、これを証拠として採用する。

五  自白等の信用性ついて

そこで次に、被告人両名及びAの捜査段階における自白の信用性についてみると、金員授受の性格、立候補決意の時期のほか、先に検討した一連の客観的事実に沿う供述がなされており、細部に多少異なる点はあるものの基本的部分が一致し、さらにAが基本的にこれらの点について公判においても供述を維持していること等の事情に照らして、その内容は、十分信用できるものである。

しかしながら、請託については、Aも証言において捜査段階における自白と大幅に異なる供述をし、被告人両名も他の点同様捜査段階と異なる供述をしているので、特に右の点に関する自白内容について検討する。

まず、Aの自白は、当初二〇〇〇万円程度の援助を考えていたところ、予想以上に資金が必要となり、追加の援助を検討する過程において、請託をしようとの気になった経緯や、資金捻出の苦労及び甲に対する感情等が詳細に供述されており、供述内容から認められる事実経過も十分に自然である。また、乙の供述にいても、自らの政治経歴、市長選に至るまでの状況と当時の乙の心情、Tに資金援助を仰いだ事情、八月初旬に三者で話し合いをした際の状況、捜査が始まってからの状況等が詳細に供述されており、その内容はおおむね納得できる。さらに、特異な供述経過をたどった甲の自白について検討すると次のような事情を指摘できる。すなわち、意思強固で慎重に供述をしていた甲が勾留満期直前になって一転して自白した経緯に照らすと、甲としては、右自白当時、真実を述べようとの気になっていたと窺われる。そして、甲は請託の点だけでなく、三〇〇〇万円授受の性格などの点についても一気に自白に至ったものであり、右の性格に関する自白内容は、先に検討した客観的事情に照らして真実と認められるところ、右部分について真実の自白をしながら、請託の点についてのみことさら虚偽の自白をしたことを窺わせる事情は認められず、むしろ、右の点について、「寺脇検事に対しては、昭和六〇年七月の段階でAと三〇〇〇万円供与の相談をしたような供述をしたが、良く考えてみると乙へ贈る金について八月以前の段階でAと相談した記憶はない。」「三〇〇〇万円という金額を申し出たのは乙である。」「資金援助を分割して行うという話が出たことははっきり記憶していない。」と当時のAや乙の自白内容と異なる供述をしているのであって、自らの記憶に従って供述がなされていたことが認められる。このような甲の供述態度に加えて、右自白中で請託が行われた状況について詳細に供述されていることにも照らすと、請託を認めた甲の自白には高度の信用性があり、これと合致するAや乙の自白の信用性をも高めるものということができる。

ところでAや被告人らは、公判廷において、右自白を翻しているのであるが、まずAの公判供述についてみると、Cへの贈賄や、乙に対する金の性格等ほとんどの点についてAは捜査段階と同様の供述をしているにもかかわらず、請託に関する部分については、捜査段階の供述を完全に翻し、請託の話し合いがあったことだけでなく、「当時、他の業者よりTを有利に扱ってもらいたいという気持ちはなかった。」「乙が市長になってから何らかの面で面倒を見てもらえるかもしれないと思ってはいたが、具体的にどういう面倒を見てもらえるかについては考えていなかった。」「有利な取扱いをしてもらおうという気持ちがあって乙を応援したのではない。」とまで供述しているのであるが、このような供述が、先に認定した諸事情に照らして到底信用できないことは明らかであり、請託に関するAの公判供述の信用性には重大な疑問がある。また、甲や乙は、公判において、そもそも三〇〇〇万円はAからの個人的な借り入れであるとの前提に立ち、請託はなかったと供述しているのであるが、三〇〇〇万円授受の性格に関する右両名の公判供述が、客観的事実に照らし、いかにも不自然不合理で信用できないことは先に検討したとおりであるから、これと軌を一にする請託の有無についての右両名の公判供述も信用の限りでない。

第六  乙に関する贈収賄について―結論

一  以上検討したとおり、公訴事実中、金銭授受の性格、立候補決意の時期などの点については、被告人両名の捜査段階における自白をまつまでもなく、第三者の供述等により認められる一連の事実から第四の一ないし三のとおり認定することが可能である。また、被告人両名の右自白も、この認定を裏づけるものである。

二  請託について

1 請託文言とその趣旨

請託の有無及びその内容の点については、第四の四において検討したとおり、第三者の供述等によって認められる各事実から、請託の存在が強く推認されるところであるが、さらに、右第五の五のとおり、その内容が信用できるA及び被告人両名の捜査段階での各供述によれば、昭和六〇年八月初旬にTで持たれたA及び被告人両名の話し合いにおいて、Tから乙への三〇〇〇万円の資金援助が約束された際、A及び甲は、「選挙の情勢はどうですか。選挙資金はT建設で三〇〇〇万円を用意しますので、G建設から援助を受けないで下さい。…選挙資金のお世話は、T建設でしますから、市長になったら恩返しして下さい。」旨申入れ、乙は「わかりました。」旨答えたことが認められる(なお右具体的文言に関する供述は、供述内容や供述調書上窺える供述態度などに照らし、A及び甲のものに信用を措くことができる。)。

そこで、右各文言の趣旨について検討すると、前記第四の四に認定の各事実、すなわち、Tが置かれていた当時の状況、その後の便宜供与要求等の状況とそのやり取りの内容などに照らせば、甲及びAは、乙に対し、三〇〇〇万円の資金援助を行う見返りに、乙が今市市長に就任した場合には、乙が担当すべき公共工事の請負業者の選定等について、Tを同業他社、特にGよりも有利に便宜を図ってもらいたい旨依頼し、乙もこれを了承した趣旨と認めることができる。

また、乙の市長としての職務権限やTと市とのこれまでの関係等に照らすと、甲らとしては、乙が市長就任後、多数回にわたり継続的に担当することとなる市発注工事、特にTがGと競合する学校建築工事等の大規模工事について重大な利害関心を持ち、右に関する職務行為を包括的に念頭に置いた上で、各工事をいちいち明示することなく、有利な取り計らいの依頼をし、乙もこれに応じたと認められる。

したがって、右話し合いの段階において、甲及びAから乙への請託があった事実と、乙において右請託を受けた上、その報酬として三〇〇〇万円が供与されるものであることの情を知った事実とを認めることができる。

2 「請託」の解釈

ところで、弁護人は、乙に対する事前収賄の公訴事実中にある請託は、その対象となる職務行為が特定されておらず、この程度では事前収賄罪にいう「請託」に当たらないと主張する。

しかしながら、一定の職務行為の依頼でなしに、単に将来好意ある取り扱いを受けたい趣旨で金員を供与する程度では請託に当たらないとしても、右認定したところによれば、本件においては、依頼の趣旨は単に将来好意ある取り計らいを受けたいとの漠然としたものにとどまってはおらず、ある程度具体性を有していたと認められる。そして本件において請託の対象は具体的工事名等によって特定されてはいないが、被告人らとしては、広汎な権限を有する市長の職務権限全般にわたって何ら特定せずに便宜供与を求め、これに応じたというわけではなく、右にみたとおり、乙が市長として継続的に権限を行使する建築工事、特に大規模建築工事を包括的に念頭に置いていたと認められるのであり、個々具体的に工事を特定しなかったからといって、依頼の対象となった職務行為の特定を欠くとまではいえない(この点につき、大阪高等裁判所昭和三二年一一月九日判決・高等裁判所刑事裁判特報四巻二二号五九四頁参照)。

起訴状記載の公訴事実中請託に関する部分も右の趣旨のものとして理解できるのであり、このように、収賄者の特定職務行為について包括的に、かつ先に述べた程度の具体性を持つ依頼がなされた以上、右依頼は事前収賄罪における請託にあたるというべきである。

(法令の適用)

一  被告人甲

被告人甲の判示第一の所為は、行為時においては刑法六〇条、平成三年法律第三一号による改正前の刑法一九八条、同改正前の罰金等臨時措置法三条一項一号、刑法一九七条一項後段に、裁判時においては同法六〇条、右改正後の同法一九八条、一九七条一項後段に該当するが、右は犯罪後の法令により刑の変更があったときに当たるから同法六条、一〇条により軽い行為時法の刑によることとし、判示第三の所為中贈賄の点は、行為時においては刑法六〇条、前記法律による改正前の刑法一九八条、同改正前の罰金等臨時措置法三条一項一号、刑法一九七条二項に、裁判時においては同法六〇条、右改正後の同法一九八条、一九七条二項に該当するが、右は犯罪後の法令により刑の変更があったときに当たるから同法六条、一〇条により軽い行為時法の刑によることとし、公職選挙法違反の点は、刑法六〇条、公職選挙法二四八条二項、一九九条一項にそれぞれ該当するところ、右判示第三の贈賄と公職選挙法違反は一個の行為で二個の罪名に触れる場合であるから、刑法五四条一項前段、一〇条により一罪として重い贈賄罪の刑で処断することとし、判示第一、第三の各所定刑中いずれも懲役刑を選択し、以上は、同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により犯情の重い判示第三の罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲内で同被告人を懲役二年六月に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中一四〇日を右刑に算入し、情状により同法二五条一項を適用してこの裁判確定の日から五年間右刑の執行を猶予することとし、訴訟費用は、刑事訴訟法一八一条一項本文、一八二条により、被告人乙と連帯して負担させることとする。

二  被告人乙

被告人乙の判示所為中事前収賄の点は、刑法一九七条二項に、公職選挙法違反の点は、同法二四九条、二〇〇条二項に該当するが、右は一個の行為で二個の罪名に触れる場合であるから、刑法五四条一項前段、一〇条により一罪として重い事前収賄罪の刑で処断することとし、右所定刑期の範囲内で同被告人を懲役二年六月に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中一四〇日を右刑に算入し、同被告人が判示犯行により収受した賄賂は没収することができないので、同法一九七条の五後段によりその価額金二八三五万円を同被告人から追徴することとし、訴訟費用は、刑事訴訟法一八一条一項本文、一八二条により、被告人甲と連帯して負担させることとする。

(量刑の理由)

一  本件は、Tの社長であった甲らが、地元今市市発注の各種工事等において、同業他社との受注競争を有利に進めていくため、同市役所の最高責任者である昭和六〇年当時の市長Cに贈賄を行い、さらに同市長の対立候補として昭和六一年四月一三日施行の同市長選に立候補を決意しており、後日当選した乙との間で、同人の市長当選後の市発注工事において有利な取扱いを受けることの見返りとして多額の選挙資金を供与し、同人もその情を知った上でこれを収受したというものであるが、犯行に関与したのが今市市の新旧両市長と栃木県内最大手建設業者の社長及び副社長であり、また、授受された賄賂額が合計四〇〇〇万円近くにも上る極めて多額のもので、建設業者と今市市長との深い癒着を白日のもとにさらしたことから、本件が市民に与えた衝撃は大きく、市政に対する信頼を一挙に失わせた重大事案である。

二  まず、甲の犯情についてみると、同人が社長を務めるTにおいては、過去にも、C市長に対して学校建築工事発注方式の変更を求め、その見返りとして金銭の提供を申し出たり、他の市職員に対して市発注工事に関ししばしば賄賂を贈っていたことも窺えるなど、会社の利益のためであるならば市の行政執行を金銭によって左右してもかまわないという姿勢が顕著であったことが認められ、本件各贈賄は、このような経営姿勢に根ざすものというべきであって、決して偶発的単発的なものではない。甲は、本件の各贈賄に際して副社長のAから相談を受け、Tの最高責任者として贈賄の実行を了承しただけでなく、特に乙に対する贈賄に際しては、Tに対する有利な取扱いの請託をするとともに、乙が市長に当選した後も、同人に対して、大沢中学校建築工事に関し、Aともども、請託の実行を要求し、さらには同工事の入札予定価格の漏洩まで要求するなど積極的に犯行に関与している。また、本件について捜査が開始された後は、関係者と謀った上証拠の隠滅工作をし、逮捕後は一旦事実を認めたものの、公判に至って、客観的事実に反する明らかに不自然不合理な弁解をして事実を否認しているのであって、これらの事情によれば、甲の犯情は悪質というほかない。

しかしながら、本件各贈賄を主導的に実行したのは、むしろ副社長のAであり、特にCに対する贈賄については、関与の程度も比較的消極的であったと認められること、右贈賄については、Tが、市発注工事においてCから不利益な扱いを受けるおそれを抱いていた中、実際にも、Cの腹心的立場にあったFから、指名を外されないようCに賄賂を贈った方が良いと示唆されるなどしたという事情もあること、乙に対する贈賄については、甲と乙とが従兄弟同士で以前から深いつながりがあったことから、身内の者への支援という気持ちが働いたことも否定できないこと、本件によりT社長の地位を退き、相当期間の身柄拘束も受けたこと、前科前歴が全くないこと等、甲にとって有利な若しくは斟酌すべき事情も存在する。

そこで、これらの事情や今市市をめぐる一連の贈収賄事件における他の被告人の刑との均衡などを総合考慮すると、甲の責任は重大ではあるが、今回に限り、その刑の執行を猶予するのが相当である。

三  次に乙の犯情についてみると、乙は、Tから四回にわたり合計二八三五万円もの賄賂金を受け取ったのであるが、そもそも市長になろうとする者が、市と契約関係にある業者からこれだけ多額の金銭の供与を受けること自体、将来担当すべき職務の公正さに対する信頼を揺るがすおそれが多大であるというべきところ、乙は、三〇〇〇万円の供与と引き換えにTに対する便宜取扱いを約束しただけでなく、実際にも、市長当選後、甲らの要求を受けて、大沢中学校建築工事についてG建設を指名から外すなどしたほか、極秘であるべき入札予定価格を甲に対して漏洩するなど、公正であるべき市の行政執行を実際に歪めたのである。本件の収受額は、地方自治体の長に対する過去の贈収賄事件においてあまり例を見ないほど多額であり、しかも、一連の経過に照らすと、市長選の選挙資金に事欠いた乙がTに対して積極的に金員の供与を要求するなどした側面が強く、賄賂金の一部は最終的には保険の費用などの私的用途に使われたりしてもいる。C市政が一部の業者と癒着しているとの批判を背景に、クリーン政治を標榜して選挙戦を戦い、市の最高責任者に就いた乙のこのような行為が露呈されたことにより、市政の公正に対する信頼は正に地に落ちたというべきである。ところが、乙は、捜査段階で一旦事実を認めたものの、公判においては、金はA個人から借りたものであるなどと、客観的事実に照らして明らかに不自然不合理な弁解を繰り返しているのであって、自らの犯した行為を真摯に顧み、反省する姿勢に欠けている。これらの事情によれば、乙の刑事責任は重く、実刑は免れないというほかない。

もっとも、乙がTから金銭の供与を受けるに至った事情として、同社社長の甲と従兄弟関係にあり、副社長のAとも遠縁にあたるため、身内的な意識も手伝って安易な金銭の授受に至ったことも否定できないこと、本件により相当長期間身柄を拘束され、また、逮捕後市長を辞職し、かつ本件が広く報道されたことにより、相当程度の社会的制裁を受けていること、過去業務上過失傷害罪により罰金刑に処せられた前科があるだけであり、教員、県議会議員等として業績を残したことなど乙にとって有利な若しくは斟酌すべき事情もあるので、これらの事情を総合考慮し、主文のとおり量刑した次第である。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官久保眞人 裁判官樋口直 裁判官小林宏司)

別紙〈省略〉

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